高野山にこれから訪れようとされている方、高野山のことをもっと深く知りたい方。そんな方々に高野山の魅力をお伝えすることを目標とし、木下浩良所長の視点で伝える3分でわかる高野山紹介。
高野山の本当の魅力
高野山は和歌山県北西部に位置します。「高野山」という山があるわけではなく、周囲を標高1000mの山々に囲まれた東西4km、南北2kmの山頂の盆地を「高野山」と呼びます。
今から1200年前。平安時代初めの弘仁7年(816年)に中国の唐に渡った僧侶・空海(弘法大師)が、帰国後に嵯峨天皇の勅許を得て、高野山に金剛峯寺(こんごうぶじ)を開創しました。空海は真言宗という仏教の宗派の創始者(宗祖)です。
空海さんが高野山を開創するにあたり、一番最初に建てたのが御社(みやしろ)でした。仏教の堂宇が集まる壇上のさらに一段高いところに御社があることが重要です。こういう視点は見過ごされていますが、じつはお宮さん(神社)が中心にあるわけです。高野山はいわゆる「神宮寺」に近い性格なんです。
古来、日本人は神様が基本でした。空海さんは非常に日本人的であり、山岳宗教者に近いものがありました。大門も最初、大きな朱色の鳥居だったということも分かっていますが、高野山は山岳宗教者にとっても非常に大事な場所でした。
山内のご住職さんたちは、今でも高野山の神事にかかわる年中行事のことを「神様ごと」とおっしゃいます。中心にあるのは御社の丹生明神なのです。丹生明神は女神。富士山もそうですが、全国の山神さんは女性が多いんです。女性は本来、神がかる神聖化された存在なのです。
神道や仏教、山岳宗教など。異なる宗教や考え方がお互いリスペクトされ、一つの山に集約されている。そして、空海さんはまさにそれを著書や曼荼羅(まんだら)という図画で表現された。そういう魅力にあふれた山が高野山です。
石塔から知る高野山の歴史
高野山の北東部には「奥之院」と呼ばれる場所があり、弘法大師・空海が承和2年(835)に入定(生きたまま禅定<宗教的な瞑想>に入ること)された御廟(ごびょう)があります。
その御廟に寄り添うように、奥之院では公称で30万基とも言われる石塔が群立。古くは鎌倉時代初期の石塔から、現在でも石塔の造立がくりかえされています。日本でこれほど石塔が立てられた寺院は高野山の他ありません。
2kmほどの奥之院参道には、左右に苔むした古い石塔があり、日本を代表する全国の名だたる戦国武将をはじめ、著名人の石塔を認めることができます。しかも、奥之院は権力者だけでなく、一般の庶民も同じように埋葬しているのが大きな特徴です。ではなぜ、空海さんの御廟に寄り添うようにこれだけの石塔があるのでしょうか?
仏教を説いたのはお釈迦様です。お釈迦様は今から2500年も前、紀元前5世紀から4世紀頃に実在した人物です。お釈迦様は80歳で入滅されましたが、仏教ではその56億7000万年後に弥勒菩薩(みろくぼさつ)がこの世に現れ、「龍華樹(りゅうげじゅ)という菩提樹の下で悟りを得て、三度説法して人々を救済すると信じられてきました。これを「龍華三会(りゅうげさんね)」と言います。そして、その場所がここ高野山奥之院で、56億7000万年後に弥勒菩薩が空海さんとともに現れると、今でも信じられているのです。
高野山の宿坊文化や精進料理
高野山にあるお寺は約117カ寺。そのうち、参拝者が泊まることができる「宿坊」を兼ねるお寺も多く、清浄心院も宿坊の一つです。お寺の中にある宿坊では僧侶の修行を間近で見ることができるとともに、朝のお勤め(仏様にお経を唱え、礼拝すること)である「朝勤行」にも参列できます。
宿坊の食事は精進料理。仏教は殺生を禁じているため、肉や魚など動物性の食材はもちろん、匂いや辛味の強い野菜である五葷(ごくん)も使わない料理を味わうことができます。まさに宿坊に泊まることは、観光ではない高野山の姿を直接感じることができます。
高野山大学名誉教授・山陰加春夫先生の調査では、宿坊制度は南北朝時代に初めて資料に登場します。高野山では当初、宿坊運営に否定的でしたが室町時代には一般的になってきます。
やがて戦国大名の菩提寺として、高野山の各寺院がバックアップを受けるようになり、戦国大名が高野山参拝する際の宿泊施設として宿坊が用いられ、絆がどんどん強まっていったのだと考えられます。
たとえば、平宗盛は清浄心院、足利尊氏は金剛三昧院というように、お寺と特権階級とのつながりが深まっていったのです。蓮華定院は真田昌幸、真田幸村など真田家一族の拠点であるとともに、真田家の家臣や領民までが高野山参拝の折には蓮華定院に泊まるということになっています。なぜ、それが分かるかというと「宿坊証文(しゅくぼうしょうもん)」が残っているからです。
「宿坊証文」はお寺と特権階級でとりかわす証文で、蓮華定院は真田家、清浄心院は佐竹家との宿坊証文というのが残っています。証文では家臣も領民も高野山参詣時にその宿坊を使うことを約束しているのです。
江戸時代になると特権階級との関係は、そのまま諸藩とのつながりとして続きます。高野山の参詣者も増えて山内は賑わい、最高で2000カ寺、やがて江戸時代後期には600の寺院に落ち着いたと言います。有力なお寺は35石ほどの(※)石高があり、山麓の農家から年貢としてお寺にお米を納めるために登山をしたそうです。
ところが、面白いことに信仰心ある農家は、金剛峯寺はじめ各寺院へ年貢を喜んでお寺に納めにきたというのです。年貢を納めるというより、仏様やお寺への奉納やお布施としての気持ちがあったのではないかと思います。だから、年貢が完全に廃止されても、昭和40年頃までこの風習は続いたのです。これを「雑事(ぞうじ)登り」と言います。今は途絶えてしまいましたが、お米だけでなく、野菜や生活用品など、山麓の農家から自主的に奉納の文化が続いたのです。
しかし、近年になってこの「雑事(ぞうじ)登り」を復活させようという動きがでてきました。清浄心院ではこの素晴らしい伝統を継承して後世に伝えていくため、精進料理の材料に「雑事(ぞうじ)登り」の野菜を積極的に使用する取り組みを始めました。
※石高=その土地の農業生産量をお米の量で出したもの。一石は大人1人が1年間食べる量。
木下浩良所長の一言
真言宗の信者は「空海」とは言わずに、「宗祖弘法大師」と呼称するのが一般的ですが、私は講演や日常などで親しみを込めて「空海さん」という呼称を使っています。それは、今も空海さんが我々一人ひとりに寄り添っていると信じているからに他なりません。また、「弘法大師」「お大師さま」という呼称は、仏教や密教に興味がない一般の方には認知度が低く、「空海」という教科書にも登場する認知度が高いお名前を使うことが、誰にでもイメージしやすい人物像につながるのではないかと考えています。