清浄心院の寺宝

平安時代に開かれた古刹・清浄心院の御本尊をはじめ、所蔵する重要文化財などの寺宝と、研究所が独自の調査・研究で発見した宝物を掲載しています。なお、重要文化財の中将姫筆の九品曼荼羅、当麻建立之図に関しましては常時、高野山霊宝館で管理されているため掲載されておりません。

御本尊廿日(はつか)大師(秘仏)

承和2年(835)3月20日、弘法大師がご入定(にゅうじょう)される前日、自らの像を彫刻されて「微雲管(みうんかん)」の3字を後ろに刻まれたという木像。清浄心院の御本尊で、毎年4月20日の縁日にのみ開帳される秘仏。大師が弟子たちに僧として守るべき事柄をまとめた『御遺告(ごゆいごう)』には、「お大師さまは弥勒菩薩と下生する五十六億余年後まで、天(兜率天=とそつてん)の微雲管という雲の間から私たちをご覧になっている」とある。大師は微雲管から私たちの信仰を見守り、今も私たちの幸せを願ってくださっている。

阿弥陀如来

阿弥陀如来(あみだにょらい)立像
(国指定重要文化財)鎌倉時代

仏師・運慶作と伝えられる像高96.6㎝の木造。玉眼(水晶)を入れ、全体に細身に造られている。印相は上品下生の来迎印。金泥と切金文様を入れた鎌倉時代の秀作で、保存状態も良好。明治30年12月28日、旧国宝に指定。

上杉謙信霊屋(うえすぎけんしんたまや)
(国指定重要文化財)江戸時代

謙信と景勝の二人の石造の位牌が納められている、入母屋造、檜皮葺の霊屋。正面にのみ縁を設け、内部外部ともに彩色を施す。江戸時代前期のもので、もとは上杉謙信霊屋と上杉景勝霊屋と二棟が並んでいた。昭和40年5月29日、重要文化財に指定。

佐竹義重霊屋(さたけよししげたまや)
安土桃山時代末期

戦国武将の佐竹義重の霊屋。正面向かって右の柱に「常陸国佐竹為義重逆修(ぎゃくしゅ)造立之」、左の柱に「旹(ときに)慶長四己亥十月十五日」と彫刻された銘文がある。義重が生前葬をして建立したことを伝える。壁面は五輪塔を彫刻し、全面に彩色の跡も残した貴重な建造物である。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)
室町時代 絹本着色 1幅

『御遺告(ごゆいごう)』の「5~6歳の頃、蓮華座に座して諸佛と物語る」記述に基づいて図像化されたもの。袴を着けた垂髪(すいはつ:たれ下げた髪)姿の童形の空海が合掌し、蓮華座に座して、月輪を後背としている。稚児大師像と言えば本図が普及しているが、中世以前の作例は少なく、清浄心院蔵の御影は貴重である。※高野山霊宝館寄託

木下浩良所長&研究所が新たに発見・研究した寺宝です。中でも鎌倉時代の『性霊集』高野版は、清浄心院の蔵で発見した貴重なものとして調査が進んでいます。

佐竹義重宿坊証文(さたけよししげしゅくぼうしょうもん)安土桃山時代末期

戦国武将の佐竹義重が清浄心院へ発給した文書です。内容は佐竹義重個人にだけでなく、佐竹家の家臣・領民が高野山参詣をした時は、必ず清浄心院で宿泊するという宿坊関係を取り交わした証文(契約書)となっています。慶長4年(1599)のものでこの当時、佐竹氏は常陸国(現在の茨城県周辺)54万石を領していました。

京名所図屏風 江戸時代初期頃 

向かって右隻の端に京都の清水寺から八坂の塔・祇園社に至る東山の名所を描く。左隻には、北野社を中心として右上に金閣寺を描く。京都の二大遊楽地を一双の屏風に仕立てている。描かれた人物の衣装は前時代のものとも見られるが、少し時代が下った江戸時代のでも初期のものと推察する。当時の風俗を伺う貴重な屏風である。紙本金地着色/六曲一双 169㎝×356㎝。

諸侯方其外年頭状木札配進録(しょこうがたそのほかねんとうじょうきふだはいしんろく)

江戸時代末期の文久元年(1861)に認められた記録。新年を迎えるにあたり、清浄心院と宿坊関係にあった大名・旗本・有力町人への「御札」を配った際の控えです。佐竹家をはじめ、松平大和守家(結城秀康の五男直基からはじまる)・大関家(栃木県)・大田原家(栃木県大田原市)・松前家(北海道松前町)などの大名の名が記されています。後に東京の白木屋デパートに発展する江戸三大呉服店の一つの大村氏の名も見られます。

「横笛・滝口入道図屏風」寺崎広業筆 
明治時代 紙本著色/六曲一双

右隻には横笛が滝口入道に会うことが許されず、秋草の乱れ咲く京都の嵯峨の野辺を、三日月に背を向けて淋しく帰る姿を描く。横笛は滝口が嵯峨の往生院にいることを探しあぐねて訪問したが、滝口は面会を許さなかった。左隻には、滝口入道が横笛との想念を振り切ろうと座禅をする姿を描いている。この話は『平家物語』に記されているもので、滝口はこの時19歳で、横笛はこの後没した。滝口は横笛が死後、高野山の清浄心院へ入り益々修行に励んだとされる。

稚児大師御影(ちごだいしみえ)
江戸時代 絹本着色 1幅
箱書と表紙には「童形大師」と墨書する。天照大神が下生(げしょう)した時の姿の童子形の神像の雨宝童子(うほうどうじ)に酷似する。ちなみに、同童子は大日如来が現れた姿ともされていて、その影響で作られた像とも推定される。本図は童服をつけた立像である。髪型は古代における子供の角髪(みずら)で、髪の中央から左右に分け、両耳の上で丸く結っている。両手には宝珠を持つ。

 
『性霊集』高野版 鎌倉時代

 令和3年12月、清浄心院・高野山文化歴史研究所が清浄心院の蔵で発見した「遍照発揮性霊集」。性霊集(しょうりょうしゅう)とは、空海の弟子の真済(しんぜい)が、師匠である空海の詩文・碑銘・書簡・表白などを集めたもの。全10巻で、空海が入定した承和(じょうわ)2年(835)頃に成立。後に8・9・10巻が散逸したために、承暦(じょうりゃく)3年(1079)済暹(さいせん)が手を尽くして空海の遺稿47章を拾集して補い、巻数を旧に復した。
 清浄心院から発見された性霊集は、鎌倉時代中頃の建治(けんじ)3年の高野山で刊行された高野版(こうやばん)で、4・6・7・9の各巻。印刷された文字は鮮明で、紙質も鎌倉時代中頃の高野山麓で漉かれた高野紙(こうやがみ)であり、建治3年の印行された当時のものと推定される。装丁は巻物仕立ての巻子本(かんすぼん)となっている。高野版は通常は冊子で装丁される中で、珍しい装丁である。
 後世になり、文中に付けられた訓点は刊行から7年後の弘安(こうあん)7年(1284)に「桂亜相禅門(かつらあしょうぜんもん)」の手による成ったもの。これまで性霊集の訓点については、聖範・剣覚・観覚・桂亜相禅門の4名の合作によるものは知られていたが、桂亜相禅門の単独の訓点は初めての発見であり貴重。桂亜相禅門の実名は未詳であるが、「亜相」とは大納言(だいなごん)別称で、「禅門」とあることにより出家者で、「桂」とは地名を示すものとすると、晩年に出家して京都の桂の里に退隠した桂大納言と称された平安時代末期の上級貴族の藤原光頼(ふじわらのみつより:1124~1173)と推定される。
 清浄心院の性霊集の訓点が書写された場所は、奈良の西大寺(さいだいじ)の塔頭寺院の常施院(じょうせいん)で、正応(しょうおう)元年(1288)のことと明記する。常施院は忍性(にんしょう:1217~1303)が病人を救うために創建した寺院として知られているが、清浄心院の性霊集のテキストなる元本が同院にあったことが指摘される。
 忍性は鎌倉幕府の執権北条時頼(ときより)らの招きにより奈良から鎌倉に赴き、同地で極楽寺を開いて、貧民やハンセン病患者など社会的弱者の救済等の社会事業を行った高僧であった。文永(ぶんえい)6年(1269)には江ノ島で祈雨の法を修めたことでも知られている。

解説 木下浩良(清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長)