第1回 江戸時代の高野山



高野山の文化と歴史講座 第1回
江戸時代の高野山 木下浩良

(清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長)

今回から始まる『高野山の文化と歴史講座』シリーズ。観光パンフレットやガイドブックには掲載されていないコアな内容をふくめ、高野山ファンも注目の研究情報をお伝えしていきます。木下浩良所長をはじめ、専門家の方々の著作や寄稿文も紹介してまいります。

高野山は2000寺を数える巨大勢力へ発展

 江戸時代の高野山を語るうえで、まず知っておくべきは、織田信長の死後、権力を握った豊臣秀吉と高野山の関係です。
 天正13年(1585)、秀吉は当初、根来寺と同じように高野山に降伏を求め、寺領を没収してつぶそうとしていました。根来寺の場合は僧兵、根来衆(ねごろしゅう)が鉄砲をたくさん持っていて秀吉に反抗していましたから、つぶされたんです。でも、高野山はどちらかというと強い方につくスタンスであり、その交渉にあたったのが木食応其(もくじきおうご)という僧でした。
 木食応其は秀吉の信頼を得ることに成功し、高野山は攻められることなく、石高も安堵されることとなり、秀吉はその後も高野山最大のスポンサーとなっていきます。しかし、それまで15万石あった石高が2万1千石にまで減らされてしまいます。木食応其は結局、関ヶ原の戦いでは西軍につき、敗れた後は高野山へ戻らずに故郷の近江国に帰ることになるのですが、その後も江戸幕府は高野山と敵対することもなく、徳川家康も高野山を信仰するわけです。石高も2万1千石のままで。
 そして、江戸時代初期(1600~)も高野山は勢力を維持したまま続くことになります。2万1千石といっても全国の寺社勢力では最大級の石高ですから。この当時1万石以上の領主は大名でした。高野山は石高は少なかったのですが、特に10万石クラスの大名と同格の扱いを江戸幕府から受けていたのでした。やがて高野山は2000カ寺を数え、元禄時代(1688~1704)頃までには800カ寺に減りますが、それでも大きな勢力を維持することになります。

 高野山は中世以前から、祈祷や寺院経営、諸堂の管理もする行人方(ぎょうにんがた)、祈祷はもちろん、密教を学問的に研究する学侶方(がくりょうがた)、全国に布教・勧進する多くの僧は聖方(ひじりがた)の三派でなっていました。中でも行人方と学侶方が二大勢力でした。
 江戸時代初期~元禄までは行人方が幅をきかせ、1700カ寺を数える勢力を伸ばしていたのに対し、学侶方のお寺は200寺ほど。この行人方と学侶方は対立していたため、徳川幕府が両者のアンバンランスを解消するために調整し、江戸時代中期には逆転をすることになります。
 そして、行人方のお寺の多くはつぶされます。その時に残った行人方のお寺というのは学侶方の言うこと聞きますよという誓約書を書いたところだけなのです。その方針に協力できなかった行人方の僧侶は全国に散らばっていくことになるのです。五島列島や鹿児島などの地方へ流罪として落ち延びていくことになりました。

徳川霊台は東照宮だった!?

 秀吉の時代、高野山は石田三成らのあつい信仰を得ましたが、江戸時代も徳川家康や秀忠はじめ、秀忠の正室であるお江の方(崇源院)もあつく信仰します。奥之院には高野山で最大と言われる8メートル以上の高さを持つお江の供養塔がありますが、それを建てたのは三代将軍・徳川家光の弟である忠長です。
 家光は乳母である春日局の方を重んじましたが、忠長はお母さんっ子であり、お江が火葬される時の着火は奥之院の火を持ってきているわけです。後に忠長は兄弟喧嘩で切腹させられますが、石塔を見るだけでもいろいろな人間模様を垣間見れます。
 また、高野山には徳川家霊台という、家康と秀忠を祀る霊屋(たまや)があります。じつは、霊台と言いますが、家康の方の建物は東照宮なのです。東照宮は日本中いっぱいあって、元和年間(1615~1624)くらいから各藩が造り始めたんですが、高野山は寛永年間(1624~1644)に建てられたと言われます。
 秀忠の方は御霊屋(おたまや)といって、あそこは霊屋ですが、家康は東照宮であり、東照大権現=つまり神様なので神社なんですね。明治維新で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)があり、神社と分離するために東照宮は壊されそうになったんですが、それを守るために昭和30年代まで「薬師堂」になるんです。昭和40年ぐらいからですね。歴史的な研究を経て、徳川家霊台と呼ばれるようになったのは。

明治17刊行の高野山絵図に描かれた行人方の東照宮

 ちなみに徳川家霊台は聖方が建てたものですが、今の金剛峯寺の裏には広場があって、そこには行人方が建造した東照宮がありました。その行人方の東照宮の末路ですが、明治21年に高野山内の寺院は大火のため、半数ほどの塔頭寺院が灰燼となりました。その復興のため、行人方の東照宮の建物は山内の各所に移築されたのでした。高野山大学の正門はかつて東大の赤門に対して「黒門」と呼ばれた門があり、昭和25年のジェーン台風で全壊してしまいましたが、これは行人方の東照宮の登口にあった門でした。
 普賢院の四脚門は現存しますが、あれもものすごく貴重なんです。行人方の東照宮の遺構です。国指定文化財です。普賢院の本堂も貴重で、行人方の東照宮の本殿を移築したものです。常喜院には校倉造(あぜくらづくり)の建物が1棟残されていますが、これは行人方の東照宮の経蔵を移築したもので、和歌山県指定文化財となっています。南海電車の創始者の松本重太郎氏が同院へ寄進した建物でした。西門院前の石燈籠も、行人方の東照宮の遺物と伝えられています。
 さて、江戸時代初期に2000カ寺を数え、元禄時代(1688~1704)頃までには800カ寺に減った高野山の勢力は、元禄時代を境に学侶方中心になっていきますが、大きな活気は維持したまま安定期に入っていきます。