第3回 高野山は大きな曼荼羅



高野山の文化と歴史講座 第3回
高野山は大きな曼荼羅
木下浩良

(清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長)

『高野山の文化と歴史講座』シリーズ第三弾は、「弘法大師はなぜ高野山を選んだのか?」「高野山をどのような意味で開創したのか?」など、弘法大師が考えていた高野山の構想について考えます。また、高野山は大塔内の立体曼荼羅だけでなく、高野山全体が曼荼羅であることを木下所長が説明してくださいました。

弘法大師が高野山を選んだ理由

 標高1000メートル級の8つの山々に囲まれた山上の盆地を「高野山」と言いますが、この「高野山」を囲む山々を八葉の蓮華の花にたとえ、「八葉の峰」と呼びます。この「八葉の峰」という記述は10世紀の文献からですが、おそらく、空海さんもこの場所を知った時、同じことを思ったのではないかと思うんです。
 研究者の中では広く知られていますが、空海さんが若き頃に大学を退学をしてから、7年間の動向がわかっていません。おそらく、その時期に山を駆け巡るような修行をして、現在の山伏のような原始宗教者をはじめ、狩人や山人とのつながりを持った。そして、高野山に来てみてこの場所の豊かさを知ったのだと思います。
 通常、山の山頂付近は水不足なんですが、高野山の地中には緑泥片岩(りょくでいへんがん)という岩盤があり、水が地下に沈み込まず、湧水が湧くところなんです。また、地震の被害の記録も少ない。それを彼らから聞き、多くの修行者が生活をするために適した場所ということを自らも体感したのではないでしょうか。だから、醍醐天皇に高野山を賜りたいと願ったのだと思います。
 高野山は大門から奥之院まで4キロ、東西に2キロもの平原であり、修行者たちが多い吉野からも近い。こういう絶好の地形というのは日本中を探しても、なかなかないですからね。

高野山に参詣するだけで曼荼羅の一部に

 空海さんは、高野山に真言宗では「密厳浄土」と呼ぶ理想の地を作りたいと思っていたに違いありません。ここに来れば、一人ひとりが立体曼荼羅に入ることができるからです。壇上伽藍に上がるということは、大日如来に入るということであり、その中心が根本大塔。空海さんの時代は「大塔」と「西塔」ですね。
 しかも、高野山は四方八方の山々に囲まれた曼荼羅みたいな土地であり、仏国土というか、仏の地なんです。大塔の中が立体曼荼羅になっているように、高野山全体を包む「八葉の峰」もさらに大きな曼荼羅を描いているのです。
 だから、実際に高野山に来て、参詣する意味は大きいと思います。空海さんにはその頃から庶民の信者も多かったでしょうから、高野山に一般の人々が集まることを前提に考え、将来の発展を見据えていたのだと思います。「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」という空海さんのお言葉通り、みんなが救われるためには、“一人ひとりが仏さま”ということに気がついてほしい。それを東寺のような官営のお寺ではなくて、自分の理想のお寺として作りたかった。高野山を特権階級だけでなく、一般市民にも来てもらえる場所と考えていたはずです。
『平家物語』高野の巻には、一泊すると仏さまになると記録があります。また、「慈尊院から一歩も入れば地獄に行かない」と鎌倉時代の人は言っていたそうです。

霊山が自然の流れとして仏教化

 私の師匠、日野西眞定師から、日本人にとって山は異界であり、あの世のようなものだと教わりました。「山中他界(さんちゅうたかい)」の考え方です。山の中腹には悪霊や亡くなった方の霊がいて、それが山頂で清らかになると。山頂は非常に聖なるところだったんです。
 霊山と言われる山々には山寺が多いですが、我が国に仏教が伝来されてから、自然の流れとして見事に仏教化したのでしょう。日光の男体山などの山頂には密教法具があったといいます。
 空海さんは入唐されて密教以外にも外来の文化をたくさん持って帰ってきていますが、そういう日本人の心はずっと持っていたということだと思います。皆さん、壇上伽藍に鳥居があるのを知ると、びっくりなさいますが、空海さんが日本古来の信仰を大事にされていたという証です。
 江戸時代の修験道は、山に入ると心身ともにパワーがアップすると信じられていました。山に入ることで人間としてリセットされるのだと。まさに、高野山も参拝をしていただくことで、擬死再生をする修験道のように、「オギャー」と生まれたばかりの穢れのない身体となって、下界に還るとも考えられます。
 このような深山幽谷にお寺をつくり、空海さんは時空を超えて今もなお、高野山にいらっしゃって、私たちを導いてくださる。そこに参詣するわれわれも、日々頑張らなくてはならないですね。