徳川家康書状【寺宝解説】

徳川家康書状二通 清浄心院所蔵(天正12年7月1日清浄心院所宛)について

現在、11月末日まで清浄心院「秋の寺宝特別展」で展示中の徳川家康書状。徳川家康と清浄心院の関係を表す二通の書状について、木下所長が新しい解説を加えてくださいましたので掲載いたします。戦国時代末期、清浄心院は当時優勢だった豊臣秀吉よりも、その後260年近く続く江戸時代を築いた徳川家康についたことは大きな意味があり、戦国時代から江戸時代にかけての高野山の状況が推測できる貴重な史料です。ぜひ、この会期中にご覧ください。

芳札観悦之至候、抑
今度為凶徒追討、至尾
州出馬、遂合戦得勝利、
爰元近日任存分候、可御心
易候、猶又米田隱岐守、越智
又太郎身上可取立之由、尤候、
上洛不可有程候之間、必可令
馳走候、此時候之條、手合肝
要之由、御助言専一候、委曲
松下源左衛門尉可申候、恐々謹言、

七月一日 家康(花押)
清浄心院

清浄心院より、お手紙を頂き非常に感激しました。この度、尾張国へ出馬し、豊臣軍を征伐して勝利を挙げました。私は、思うように戦をしております。どうぞ、ご安心なさってください。なお、米田隠岐守と越智又三郎の両人を取り立てることは、もっともなことと思います。しばらくは上洛できませんが、必ず両人のことはいいようにとり図ります。その際には、どうかご助言頂きたくお願いします。詳しいことは松下源左衛門尉へお尋ねください。以上、恐れかしこまり、謹んで申し上げます。

七月一日 家康(花押)
清浄心院

NHKの大河ドラマ『どうする家康』でも放映された「小牧・長久手の戦」の最中、天正12年(1584)7月1日に清浄心院へ発給された徳川家康の書状です。この戦の緒戦に勝利した家康の気持ちが書かれており、本状により清浄心院の住職と家康は親交があったことがうかがえます。この書状の内容より清浄心院では豊臣秀吉との戦における家康への戦勝祈願が行われていたことが考えられます。秀吉と家康の勢力を比べると、圧倒的に秀吉軍が多勢で優位にいました。その中で、清浄心院が家康方にいたことは注目されます。
 また、織田信長は本能寺の変以前に軍勢を出して高野山を攻めました。高野山に隣接する大和国の豪族たちは信長の重臣の筒井順慶により滅ぼされますが、清浄心院がその一族をかくまっており、その豪族の再起が叶うように家康対して働きかけていることも明記されていました。弱肉強食の戦国の世にあって、利害関係を度外視した清浄心院の動向は特筆されます。
 木下浩良

木下所長

芳墨殊卷数、守、并
五種送給候、祝著之
至候、去夏之節も、預音
章候、度々御懇為悦候、
尚松下源左衞門尉可申達候、
恐々謹言、

十二月九日 家康(花押)
清淨心院

この度、清浄心院から、お手紙とご祈祷を頂きましたご報告とお守りと五種の品々をお送り頂きました。心より喜んでおります。先だっての夏にもお手紙頂きました。度々、ご懇意を頂き嬉しく存じます。なお、詳しいことは松下源左衛門尉に申し伝えております。以上、恐れかしこまり、謹んで申し上げます。

十二月九日 家康(花押)
清淨心院

天正12年(1584)12月9日、徳川家康が清浄心院へ発給した書状です。清浄心院より家康へ祈祷をした報告と、それに添えられた御守りなどに対する御礼を記しています。また、長期にわたる小牧・長久手の戦が終わり家康の思惑通りに事が進んだことに、清浄心院の家康への戦勝祈願に対する感謝の気持ちを伺わせる内容となっています。これらの書状より清浄心院は家康の武将としての精神面を支え、家康への戦勝祈願が何度も行われていたことが考えられます。 木下浩良