中尊寺経【寺宝解説】

中尊寺経:四分尼羯磨(しぶんにこんま)/平安時代

12月1日から2月29日まで清浄心院「冬の寺宝特別展」にて展示中の中尊寺経(ちゅうそんじきょう)について、木下所長が高野山に中尊寺経が奉納されるまでの歴史をお話しいただくとともに、この経典の詳細についてわかりやすく紹介してくださいました。ぜひ、この会期中にご覧ください。

 来る令和6年(2024)のNHK大河ドラマは、「光る君へ」が放映されます。時代は今から1000年前の平安時代。世界最古の長編小説といわれる「源氏物語」を生み出した、紫式部の人生が描かれます。テレビでは、日本の文化が熟成された煌(きら)びやかな平安貴族の世界が展開されるものと思います。
 清浄心院にも、平安時代の貴重な遺物が残されています。それが、同時代に東北の平泉(岩手県西磐井郡平泉町)の中尊寺を中心として、陸奥国(福島・宮城・岩手・青森の四県)一帯を支配していた、奥州藤原氏の初代の藤原清衡(ふじわらのきよひら)(1056~1128)が残した豪華な経典です。中尊寺経(ちゅうそんじきょう)(清衡経)と称されています。
 奥州藤原氏は、前九年の役(1051年~1062年の12年間)と後三年の役(1083年~1087の5年間)の二つの戦を経て東北地方に台頭しました。前九年の役は朝廷から派遣された源氏の棟梁の源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)父子と代々同地を支配していた安倍氏との戦です。頼義と義家は同地の豪族の清原氏の協力を得て、安倍氏を滅ぼします。
 後三年の役は、前九年の役により力を伸ばした清原氏の内部抗争により始まった戦です。この戦いに陸奥守(むつのかみ)となった源義家が介入します。前九年の役で安倍氏とともに斬首となった藤原経清(つねきよ)の遺児の清衡(きよひら)が義家に味方をして、清原氏を滅ぼします。安倍・清原の両氏の遺領を継承した清衡は、平泉(岩手県西磐井郡平泉町)に居を構えました。清衡は、この17年にも及んだ前九年の役・後三年の役での戦没者を供養するために、平泉に大寺院を建立しました。その寺院が中尊寺なのです。
 中尊寺には、金色堂(こんじきどう)という総金箔で銀や螺鈿(らでん)で装飾したお堂が現存します。これは清衡が建立したもので、自らの遺体を同堂に納めさせたのでした。同堂には清衡以後の基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の奥州藤原三代のミイラと、四代目の泰衡(やすひら)の首級(しゅきゅう)も納められています。
 清衡はこの中尊寺に、仏教の経典を集めた一切経(いっさいきょう)を奉納しました。この経典は巻物に仕立てられて、表紙の裏には、金銀で釈迦説法図や山水・動植物・人物などを描いて変化に富んでいるのが特徴です。また、表の表紙が特徴的で、宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)という文様が描かれています。見返し絵・宝相華唐草文とも、金と銀を使って描かれています。

 経文は紺紙に銀の界線を引いて、金字と銀字を一行おきに交えて書き記したとても豪華なものです。また一行ごとのお経の文句を区切る線を界線といいますが、その界線は銀で引かれています。中尊寺経というのは、通称の名前で、正しくは「紺紙金銀字交書一切経」(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)といいます。
 天治3年(1126)に清衡が著した「中尊寺建立願文」に記されている「奉納金銀泥一切経一部」とあるのが、これに相当する一切経とされています。国宝に指定された本経は、平泉文化を伝える重要な遺品です。私は京都と比べてこの時期は、平泉の方が文化は発展していたように思います。
 この中尊寺経のほとんどの4296巻が、今は金剛峯寺の所蔵となっています。肝心の中尊寺には16巻が残るだけです。何故、高野山に中尊寺経が伝えられたか詳しいことは分かっていません。いくつかの説があります。一つは、南北朝時代から室町時代にかけて中尊寺が荒廃した時に流出したという説。別の説では、豊臣秀次が高野山へ寄進したとする説、あるいは伊達政宗による奉納説などです。
 清浄心院が所蔵する中尊寺経は3巻です。「四分尼羯磨(しぶんにこんま)」という経典で、女性出家者に向けて編集されたものです。内容は、出家者の集団を運営する上で必要な儀式・作法を採録して、集団への加入儀式などを17編に分けて注釈を加えたものとなっています。 木下浩良