第4回 藤原道長と高野山 1



高野山の文化と歴史講座 第4回
藤原道長と高野山
木下浩良

(清浄心院・高野山文化歴史研究所 所長)

『高野山の文化と歴史講座』シリーズ第四弾は「藤原道長と高野山」。来年の大河ドラマは紫式部ですが、縁の深い藤原道長も登場します。藤原道長といえば、高野山奥之院の燈籠堂は真然大徳が建立し、治安3年(1023)に道長が現在の大きさまでにしたという程、信仰心があつい人物。今回はこの道長と高野山の関係について木下所長が説明してくださいました。

高野山に荘園を寄進

 令和6年(2024)のNHK大河ドラマは、「光る君へ」が放映されます。お話の舞台は、今から1000年前の平安時代のこと。世界最古の長編小説といわれる「源氏物語」を生み出した、紫式部の人生が描かれます。「源氏物語」の主人公は光源氏ですが、この人物のモデルとなったのが、この当時の上流貴族の藤原道長だとされています。
 藤原道長は自身の娘を天皇に嫁がせて、天皇家の外戚となって最大の権力を得ました。これを「摂関政治」といいます。道長が詠んだ有名な和歌で「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」は、よく知られています。この和歌につきましては、近年いろんな解釈が考察されていますが、道長の自らの権威を誇ったものという点では、間違いないものと思います。
 その道長ですが、高野山の発展のために極めて重要な足跡を残しています。それは、貴紳(身分と名声のある男子)の中で、はじめて道長が高野山参詣を成したことでした。この時、道長は高野山に荘園を寄進したともされています。
 道長以降、高野山への参詣は摂関家の藤原氏だけでなく、白河上皇や鳥羽上皇などの皇族方も高野山参詣を成したのでした。まさに高野山が全国的な大教団に発展した契機が、道長の高野山参詣であったのです。
 道長は高野山参詣をして、奥之院の御廟へ参拝しました。時は、治安3年(1023)10月のことです。道長は自筆の金泥で書いた法華経と理趣経30巻を、御廟の前に埋納したのでした。
 この道長による埋納されたお経は、現在もなお、見出されていません。今も当時のままに、土中に納経されているものと考えられます。道長の寺院への納経の事例としては、奈良の吉野の金峯山寺から出土したものが知られています。お経を納入した器が金箔のもので素晴らしく、高野山奥之院にも同様に豪勢なしつらえの品が納められているものと考えられます。
 道長が奥之院に参拝した時、御廟前の橋「御廟橋」はありませんでした。参詣人の人たちは川の流れに足を濡らして対岸へと渡っていたのでした。まさに、禊ぎとしての役割が川にあったことが分かります。ただ、道長が高野山参詣をした時、川には臨時の仮橋が架けられました。この仮橋が、今の御廟橋の元になったのでした。現在の奥之院の姿となったのも、道長の高野山参詣があればこその事だと指摘されます。