中尊寺経【寺宝解説】

中尊寺経:四分尼羯磨(しぶんにこんま)/平安時代後期

 現在高野山霊宝館では、世界遺産登録20周年記念として令和6年7月20日(土)~10月14日の期間、「高野山の名宝」が開催されています。金剛峯寺が所蔵します中尊寺経も特別に展示されています。この展示に合わせ、清浄心院でも所蔵する中尊寺経を秋の特別展として展観致します。流転を重ねた中尊寺経ですが、この機会に是非とも御覧下さい。

 本経典は女性出家者に向けて編集されたものです。内容は、出家者の集団を運営する上で必要な儀式・作法を採録して、集団への加入儀式などを17編に分けて注釈を加えたものとなっています。
 清浄心院が所蔵する本経の装丁は巻子本(かんすぼん:巻物のこと)です。紺色に染めた紙に経文の文句が一行ごとに金字と銀字で交互に書写されています。表の表紙には宝相華唐草文(ほうそうげからくさもん)の文様が描かれています。表紙の裏の見返(みかえ)しには、見返し絵(みかえしえ:お経の本文に先だって描かれている絵)を金泥・銀泥で描いています。極めて豪華な特徴を有する本経典は、奥州の平泉の中尊寺に納められた中尊寺経(ちゅうそんじきょう)の他にはありません。清浄心院が所蔵する本経も、中尊寺経の一つなのです。
 中尊寺経は、「紺紙金銀字交書一切経(こんしきんぎんじこうしょいっさいきょう)」と称されています。一切とは、全部、すべて、ことごとくという意味の言葉です。一切経とは、いっさいがっさいの経典を集めたもの、ということになります。仏教の経典は、5400巻近い経典から成り立っています。

 中尊寺経の一大事業を始めたのは、奥州藤原氏の初代藤原清衡(ふじわらのきよひら:1056-1128)でした。実際に書写事業がはじめられたのは、永久(えいきゅう)5年(1117)2月からで、9年後の天治(てんじ)3年(1126)3月に完成をしています。
 奥州は金が産出していました。奥州藤原氏はこの金を得て、隣国の中国と貿易を行い巨万の富を得ていました。今に残る中尊寺の金色堂はその当時の奥州藤原氏の財力を今に伝えています。同じく中尊寺経も、奥州藤原氏の財力と権力の大きさを見ることができる貴重な仏教文化となっています。奥州藤原氏はその後、鎌倉幕府を開いた源頼朝より滅ぼされて、今に残る繁栄当時のものは金色堂と中尊寺経しかありません。
 その中尊寺にあるはずの中尊寺経ですが、同寺にはわずか15巻が伝わるのみです。その大半の4296巻が、高野山金剛峯寺が所蔵しています。中尊寺から高野山へ寄与されたとの伝承もありますが、実際は戦国時代から全国を統一した豊臣秀吉の甥の関白秀次が、中尊寺から高野山へ中尊寺経を寄贈したとする説が有力です。現在、高野山金剛峯寺が所蔵する中尊寺経は国宝に指定されて、高野山霊宝館に収蔵されて管理されています。
木下浩良