偕楽園焼交趾焼写二彩寿字文花生
(かいらくえんやき こうちうつしにさいじゅのじもんはないけ)/江戸時代


高さ41cm/幅18cm 江戸時代(19世紀)
偕楽園焼の特色は、紫色と浅葱色(あさぎいろ:ごく薄い藍色のこと)の釉薬が鮮やかなことです。
同焼の作品は、茶の湯を好み表千家とも深い親交のあった和歌山藩第10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ:1771~1853)が自身の和歌山城下の隠居所の西浜御殿(和歌山市湊御殿丁付近)の庭に窯を築き、京都から楽旦入(らくたんにゅう)、永楽保全(えいらくほぜん)、仁阿弥道八(にんあみどうはち)などの著名な陶工を招いて焼かせた(御庭焼:おにわやき)ものを称します。青磁・染付などさまざまな種類の器が作られました。
本作品は、紫色と浅葱色の釉をかけ「寿」の字を文様の中心にあしらっています。底面の高台は「偕楽園製」と刻印がなされています。
文字本作品のように紫色と浅葱色の重厚な釉薬をかけ分けた作品のことを交趾写(こうちうつし)といいます。交趾とは、中国の明代に華南地域で焼かれた交趾焼のことで、それをまねたものということになります。これまでに本作品に酷似したものが、和歌山県立博物館で1点だけですが展示されたことがありますが、清浄心院が所蔵する本花立の方が一回り大きく、偕楽園焼を代表する逸品だと推定します。
なぜ、偕楽園焼の秀品が清浄心院に所蔵するのか理由は判然としませんが、江戸時代における同院と和歌山藩との交流や、当時の同院の文化度の高さを証明する遺物だと考えます。
なお、偕楽園焼は以来、明治10年(1877)頃にかけて、藩主の意向や全国的に珍重された需要の高まりから生産され続きました。和歌山藩ではこの他にも、「瑞芝焼(ずいしやき)」「南紀男山焼(なんきおとこやまやき)」があり、偕楽園焼とあわせて「紀州三大窯(きしゅうさんだいかま)」と称されています。
木下浩良
