南紀男山焼 五彩多色花生(なんきおとこやまやき ごさいたしょくはないけ)/江戸時代後期

南紀男山焼とは、紀州藩10代藩主・徳川治宝(とくがわはるとみ)が藩の御用窯として開かせたのが起源となっています。文政10年(1827)、崎山利兵衛(さきやまりへい)が、紀州藩の全面的な支援のもとに窯を開き、紀州焼物の代表的な陶磁器となります。最盛期の生産量は紀州一で、主に庶民の日用雑器が焼かれて、全国各地に船で積み出されました。
安政元年(1854)の津波で被災しましたが、濱口梧陵(はまぐちごりょう)の支援により復興。濱口梧陵はヤマサ醤油7代目当主で、稲むらに火をつけて津波から村人を救った物語『稲むらの火』の主人公・五兵衛のモデルです。
以後、南紀男山焼は明治11年(1878)までの50年余りにわたり焼き継がれました。現在、窯跡の地の和歌山県有田郡広川町には展示施設として男山焼会館が設けられ、在りし日の様子を今に伝えています。
高さ32cm/幅14cm
江戸時代後期(19世紀)
清浄心院には、その南紀男山焼の秀作があります。底部の高台には「南紀男山」と印形を緑色にして方形の印の外枠と刻銘を黒色としています。陶器の表面に朱・緑・青・黄・暗赤色の5色で、三段の色絵を施した手法としています。上段は黄色を基調として花を青色で表し、中段は暗赤色を基調として空を飛ぶ2つの鳳凰を青色と朱色で表現して、下段は黄色を基調として唐草模様と蓮の花の蓮弁を表しています。
また、上部の肩には2つの紐を通すための耳を付けた双耳壺(そうじこ)を造り出していて、その突起の耳は寅の頭部として紐を通す輪は寅が口に含んでいる様となっています。管見にある南紀男山焼の遺物や伝製品の中では、他に類例がありません。極めて注目される遺物と考えます。
なお、蓮弁を底部に設けることは、仏様や菩薩様が蓮弁に坐したり立ったりすることから、この花立も寺院側の要請により焼かれたものと推察しますが、あまりにも派手な色絵には驚かされます。
木下浩良


