星曼荼羅(ほしまんだら)/江戸時代
占いを愛して縁起を担ぐ日本人-宿曜経(しゅくようきょう)のこと
高野山では節分の日に星曼荼羅をかかげる「星供養」と呼ばれる行事が行われています。今回の寺宝展は2月の節分の時期に行われる星供養に合わせ、今まで非公開だった廿日大師堂の星曼荼羅を公開いたします。この機会にぜひ、清浄心院へ足をお運びください。ここでは、この星曼荼羅と密接に関係する宿曜経についてのお話をさせていただきます。
日本人は占いが大好きで、縁起を担ぐ人たちだと思います。「今日の占い」「今月の占い」「今年の運勢」というワードを見ると、皆様気になるのではないでしょうか。かく言う私自身も、今日はどんな日なのかと、ワクワクしながら日々の占いに一喜一憂している者の一人です。
また、カレンダーを見ては、今日は「大安」だと知るとなぜか嬉しくなり、逆に「仏滅」だと分かると嫌な気持ちにもなります。日本人とは、本当に占いが好きで、縁起を担ぐのが好きな人たちだと思います。
このことは日本人の特性だと思います。振り返りますと、現代よりも古の日本人の方がもっと占いが好きで縁起を担ぐ人たちだったと思われます。
事例を紹介しますと、室町時代から江戸時代の人たちは60日に一度、寝ないで徹夜をする行事がありました。それは60日に一度来る「庚申(こうしん)」の日に、人の体内にいる「三尸(さんし)」と呼ばれる虫が、寝静まると宿主の体内から密かに抜けだし、その宿主が行った悪事を天帝に告げにいくと信じられていたからでした。これを「庚申信仰(こうしんしんこう)」といいます。古の人たちは、純粋に自身の日頃からの罪状に恐懼していた様が見受けられるのです。
庚申信仰のご利益としては、延命長寿・無病息災病・諸願成就で、農村部においては、豊作、漁村では大漁、商家では商売繫盛が挙げられました。いかに古の人たちが、自身の善行に対する対価として、善い結果が訪れると信じていたことが分かります。
さらに、暦には12日間も続けて凶日が続く縁起の悪い期間(これを八専〈はっせん〉といいます)がありますが、古の人たちはこの期間を非常に気にしていました。この間は、外出を控えるとかしていたのです。
このように、いにしえよりの日本人が、占いや縁起の根拠としていたのが「宿曜経」という経典です。この経典を我が国もたらしたのが、空海さんだとされています。真言宗において占いが大きな比重を占めていることが分かります。
この宿曜経について、清浄心院の客僧(きゃくそう)の小林清現師が日頃より研究を積み重ねられていらっしゃいます。今回はその小林師から宿曜経について「宿曜経と星供」と題してご寄稿を頂きました。実は今年2月にも、本HPで宿曜経について触れましたが、今回改めて以下に詳しくご紹介させていただきます。 木下浩良
大同元年(806)、弘法大師は唐の国で学びえた密教を携えて日本に帰って来られました。そのとき、「宿曜経」という星に関する経典も初めて日本に伝えられました。これが今日、全国の寺院で行われている星祭の拠り所となっています。また、このときから日本でも曜日というものが知られるようになり、当時の日記には日曜日を意味する「蜜」という文字が記入されています。
その後も宿曜の説は広まりを見せ、寛弘年間(1004~1012)頃に著された紫式部の「源氏物語」桐壺の巻には「宿曜の賢き道の人に勘(かんが)へさせたまふ」と書かれています。この「宿曜の道」というのは、現在、欧米で行われている西洋占星術と同様のものでした。書家の三蹟の一人である藤原行成の日記には、宿曜の占いに深く感じ入った様子が書かれています。
このようにして平安時代後半になると、星に祈って個人としての運命を好転させたいとの希求も高まり、星神への修法すなわち星供の記録も多く見られるようになりました。この星供の本尊として11世紀頃より描かれるようになったのが北斗曼荼羅いわゆる星曼荼羅と呼ばれるものです。
星曼荼羅の中央には金輪佛頂(きんりんぶっちょう)という仏の悟りの智慧そのものを尊格として独立させた仏がおられ、そのまわりに北斗七星(各人の一生を司る星神)、九曜星(くようしょう/日・月・五惑星・蝕神・彗星、一年間の運を司る)、十二宮(おひつじ座などの、いわゆる12星座と同じもの)、そして二十八宿(月が夜ごとに滞在する28の星座)が取り囲んでいます。
高野山の各宿坊では毎年、節分が近づくと、星祭のお札書きが忙しくなります。「春夏秋冬」と表現するように、一年が「立春」から始まる、との一年のとらえ方に基づき、その前日である「節分」(2月3日頃)に「節分会」という法会を執り行って、来る一年の災いを払い幸せを祈念するのが冬の風物詩となっています。 小林清現